監督は「犯人」。僕は「刑事」。宣伝で「犯行」防ぐ

 

 

― 「千と千尋の神隠し」、アカデミー賞候補ですね。

鈴木:自分たちで作った映画が日本だけじゃなく、世界の人に見てもらえるのは、素直にすごくうれしい。特に、場面となる日本のお風呂屋さんの雰囲気を紹介できる機会は、めったにないし。それって、ちょっと痛快なんですよ。

 

大借金ゆえ正気

― 徳間書店にとって、スタジオジブリはドル箱ですね。

鈴木:いや、一出版社としては信じられないほどの借金があるんです。(元社長の)徳間康快(やすよし)が遺していったものですけど。だから次の「ハウルの動く城」も頑張らなきゃいけない。でも借金があるから、かえって、血迷わない、正気でいられる、っていうこともあります。とはいえ、経営責任を持たされれば、きっと人間がケチになります。だから、ジブリを始める時、宮さん(宮崎駿監督)に「徳間と別にやるの?傘下でやるの?」と聞かれ、僕は「徳間傘下で」と即答したんです。

 

― 映画の予告編作りは、鈴木さんの仕事だそうですね。

鈴木:いつのまにか。結構面白がって作ってますがね。

 

― 「千と千尋」の予告編では、千尋につきまとうカオナシにスポットが当たっていました。

鈴木:配給会社に見せたら、「あれじゃお客さん来ない」って言われました(笑い)。でも僕は、宮さんが描きたかったのはこれだな、と思っただけなんです。あれは千尋とカオナシの物語だと。

 

― なぜそう思ったのですか。

鈴木:出番を調べたら、カオナシが出まくってたんです。千尋を励ますハクは、むしろ影が薄い。予告編を流し始めたら、普段はあまり宣伝に口を出さない宮さんが「何あれ、カオナシで宣伝してるの」と聞きに来ました。「だって、千尋とカオナシの話でしょ」と言ったら、「ふーん」って。で、本編ができあがった後で、宮さんが僕の部屋に来て、「鈴木さん、これは千尋とカオナシの映画だよ」って。おかしいでしょう。

 

― 監督のちょっと後ろで、冷静に見守る。それがプロデューサーの役割なのですか。

鈴木:2歩も3歩も引いて。それが僕の仕事。徳間で雑誌作っていたじゃないですか。編集って、作家のそばにいて何かを生み出す仕事でしょ。それと同じですよ。別の言い方をすると、刑事。監督は犯罪者。計画を立てて、「犯行」を実行するが、時には思わぬこともしでかす。刑事は事前に察知して、未然に防ぐわけですが、それが宣伝なんですよ。

 

 

編集者の延長で

― 宣伝では、企業とのタイアップ効果を重視していますね。

鈴木:直接かかわったのは「風の谷のナウシカ」(84年公開)が最初だけど、いわば遊び。商売とかは考えないで、いいものができればそれでいいと思ってた。だけど、そうもいかなくなった。

 

― いつのことですか。

鈴木:「魔女の宅急便」(89年)の上映館を決めるときに、配給の方に「宮さん、これで終わりだね」と言われたんです。理由を聞くと、「『ナウシカ』、『天空の城ラピュタ』(86年)、『となりのトトロ』(88年)と、どんどん興行収入減ってるじゃないの」と。なるほど、数字かと。いい作品を送り続けるためには、宣伝してお客さんに来てもらわなきゃって、思い知らされた。だから、その足で日本テレビに行きました。

 

― 応援を頼んだのですか。

鈴木:「ナウシカ」を放映した局だったので。「魔女」をヒットさせたい、と出資を頼みました。

 

― 出資相手に縛られることはありませんか。

鈴木:それは関係ない。例えば、「魔女」の時に、ヤマト運輸さんに最初に言ったのは、「間違ってもおたくの新人研修に役立つような映画は作りません」。でも、宣伝に本格的に取り組み始めたことには、別の理由もあるんです。「魔女」の時、ジブリのスタッフの平均年収が120万円ほどだった。世間相場に比べ、とても低い。これじゃだめだと、それまで作品ごとにスタッフを集散させていたのをやめ、全員を社員にして、給料も倍増させようということになった。アニメ映画の製作費はほとんど人件費なんです。

 

 

トトロの不思議

― 人件費が倍になれば、製作費全体も倍になる。

鈴木:そう。「魔女」の製作費は4億円。それが次の「おもひでぽろぽろ」(91年)では8億円。社員の給料を保証するためにも、しっかり宣伝してヒットさせないといけない。おかげで、前評判の良くなかった「おもひで」が、その年の邦画で一番でした。ところで、これまでで、宮さんが一番楽しそうに作った作品は何だと思いますか。

 

― 「紅の豚」(92年)ですか。

鈴木:いや、「トトロ」なんですよ。あんなに楽しげな宮さんの姿をみたのは、あとにも先にも、この時だけです。兄貴分の高畑勲監督の「火垂るの墓」と2本立てだったので、興行面の重圧が少なく、肩の力が抜けたのかも。こけたら次がないという監督業の緊張から解放されて、名作になったと思います。でも、興行成績は良くなかったんです。

 

― えっ、あの「トトロ」が。

鈴木:最初の興行では45万人しか見ていません。「千と千尋」の公開初日の1日の人数と同じなんですよ。でも、「トトロ」は興行から2年後、キャラクター商品を出したら、売れまくって、結局、ジブリ作品の中で、一番の稼ぎ頭になったのです。もうけを狙わなかった作品が一番の収益をあげている。その現実に、僕は世の不思議を感じますね。

 

 

― 転 機 ― 徳間康快にライバル視され、本気に

 92年、スタジオジブリの「紅の豚」は、親会社・徳間書店の徳間康快社長製作の「おろしや国酔夢譚」(井上靖原作)と争う。相手は映画・音楽の世界の「大物」だ。製作を進めていると、徳間氏から「おろしや国」の会議に出るよう、呼びつけられた。末席に座っていると突然、徳間氏が怒鳴る。「おい、鈴木!おまえの『紅の豚』はいつやるんだ」。「おろしや国」は6月、「紅の豚」が7月封切りだった。「おまえは、おれが命をかけるこの映画がこけて、『紅の豚』がヒットすると思っているんだろう。正直に言え」。「はい。そのとおりです」。ふたを開ければ、「おろしや国」の配給収入は18億円。「紅の豚」は28億円だった。「鈴木、勝ってうれしいか!」。徳間氏から電話が入った。「うちの長男が『おろしや国』をみて、面白いといっていましたよ。なんで、もっと、若者にアピールしなかったのですか」と切り返すと、「そうだな、宣伝が足りなかったな」と神妙になった。

 

 思えば、徳間氏は、「アニメージュ」で連載した「風の谷のナウシカ」を映画化してくれた。85年にスタジオジブリを設け、そこへプロデューサーとして送り込んでくれた。スタジオ新築を「金は借りればいい。人間、重荷を背負うものだ」と賛成してくれた。ずっと上司で、「パトロン」だった徳間氏が、ライバルとして認めてくれたのだ。「自分は映画プロデューサーなのだ」と重みを感じた。同時に、文芸作品による「エンターテインメント」を果たせなかった徳間氏の姿に、「良い作品を作るだけではだめなのだ」と思い知った。

 

 00年9月、徳間氏が亡くなった。追悼ビデオを作り、その中で、故人がよく口にしていた「失敗すれば、またやればいい」という言葉を紹介した。それは、自分が好きな歌「ケ・セラ・セラ」の歌詞にも通じるところがあった。「なるようになる 明日のことなど分からない・・・・・・」

 

鈴木敏夫さん

暑がりなのでいつも雪駄(せった)=スタジオ屋上での写真(手すりにもたれかかって。白Tシャツの上に白地に青チェックのシャツ、赤のVネックセーター、濃茶のズボン、雪駄履き)

★経歴

 48年名古屋生まれ。慶大卒。72年徳間書店に入り、「アサヒ芸能」記者。「アニメージュ」編集長を経て、スタジオジブリ事業本部長。徳間では、ジブリを合併した97年に取締役。00年9月から常務。

★趣味

 散歩。「千と千尋」の背景イメージになった江戸東京たてもの園(東京都小金井市)には100回。

★自慢

 病欠ゼロ。医者は「仕事辞めるとなるぞ」。

★好きな言葉

 不易流行。「普遍性と時代性が大事」。

 

 

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